月に寄せる思い
北山にたなびく雲の青雲の 星離れ行き月を離れて
きたやまに たなびくくもの あをくもの ほしはなれゆき つきをはなれて(持統天皇・万葉集161)
・天武天皇の崩御されたときの歌
「香具山にたなびく雲が、星を離れ月を離れてゆく…」
・そんな風に私や皇子たちを残して逝かれた、ということです
こぞ見てし秋の月夜は照らせども 相見し妹はいや年さかる
こぞみてし あきのつくよは てらせども あひみしいもは いやとしさかる(人麻呂・万葉集211)
・妻を亡くした人麻呂がたくさん作った中の一首
「去年と同じ月夜だが、寝所で共に見た君とはどんどん年が離れてゆく」
あまの原ふりさけ見れば 春日なるみかさの山に出でし月かも
あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも(安倍仲麿・古今集406)
・遣唐使として唐に渡り幾星霜、やっと帰れることになり中国で送別会を開いてくれたときの歌
「大空を振り仰いで見ると、ああ、あの月も故郷で見た月…」
・でも、乗った船が遭難して結局帰れなかったんです…
世のなかは空しきものとあらむとぞ この照る月は満ち欠けしける
よのなかは むなしきものと あらむとぞ このてるつきは みちかけしける(万葉集445)
・長屋王の変で子の膳部王が亡くなったとき誰かが詠んだ歌
「この世が虚しいものだと教え諭すために、月は満ち欠けするのか」
・世の無常を説いています。お坊さんが詠んだんでしょうか
月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに
つくよみの ひかりにきませ あしひきの やまきへなりて とほからなくに(湯原王・万葉集673)
・志貴皇子の御子たる湯原王の月見の宴での歌
「月の光の中を来てくださいな、山を隔てて遠くというわけではないのだから」
・女性の心理を詠んだんです
夕闇はみちたづたづし 月待ちて行ませ吾が背子その間にも見む
ゆふやみは みちたづたづし つきまちて いませわがせこ そのまにもみむ(大宅女・万葉集712)
「夕闇は路がよく見えないから月が出るまで待って。その間に…ね」
・源氏物語の中で、源氏が女三宮のところから帰る口実にこの歌の第二句を引き、女三宮はそれを引き止めるのに第三句を引いてます
月夜
わたつみの豊旗雲に入日さし こよひの月夜さやけくありこそ
わたつみの とよはたくもに いりひさし こよひのつくよ さやけくありこそ(天智天皇・万葉集14)
・新羅との戦争に船出したときの歌?
「大海原、豊かにたなびく雲に光差す落日。今宵の月夜は美しくなるだろう」
・今の瀬戸内海です。結句は「ま清かにこそ」とも
月夜よし川の音清し いざここに行くも行かぬも遊びて行かむ
つくよよし かはのおときよし いざここに ゆくもゆかぬも あそびてゆかむ(麻田陽春・万葉集574)
・大伴旅人が大宰府から京に帰るので府の皆が宴を開いたときの歌
「月は美しいし川音も清々しい、行く人も残る人も楽しもうではないか」
・潔い歌いっぷリです
秋の夜の月の光はきよけれど 人の心の隈は照らさず
あきのよの つきのひかりは きよけれど ひとのこころの くまはてらさず(後撰集326)
・是貞親王家の歌合で
「秋夜の月光は冴え冴えと濁りないが、あの人の心の奥までは照らさないのだね」
・どんなに月が明るくてもあの人の本当の気持ちまでは見えないということでしょうか
春の月
春霞たなびきにけり 久方の月の桂も花や咲くらむ
はるがすみ たなびきにけり ひさかたの つきのかつらも はなやさくらむ(貫之・後撰集18)
・醍醐天皇のお召しで奉った歌
「春霞がたなびいています、月に生える桂の木にも花が咲いていることでしょう」
・桜を霞や雲に見間違えるのは歌の世界では定番なので、霞がたなびいている=花が咲いているからだ=きっと月の中にも花が咲いているね、という論法なのかも
あたら夜の月と花とを おなじくは あはれ知れらむ人に見せばや
あたらよの つきとはなとを おなじくは あはれしれらむ ひとにみせばや(信明・後撰集103)
・月の綺麗な夜、花を見て
「こんな良夜の月と花とは、同じことなら情趣を解する人に見せたいものだ」
・ここでの花は桜と見るのが一般的ですが、梅とする説も(信明の家集ではこの歌を贈られた女が友則の歌(君ならで…)を返している為)
照りもせず曇りも果てぬ春の夜の 朧月夜にしくものぞなき
てりもせず くもりもはてぬ はるのよの おぼろづきよに しくものぞなき(大江千里・新古今55)
・白氏文集の漢詩より
「照らすでもなく、曇っているでもない、まさに朧な春の月は喩えようもない」
・「しくもの」を源氏物語では「似るもの」として引きます
夏の月
天の海に雲の波立ち 月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ
あめのうみに くものなみたち つきのふね ほしのはやしに こぎかくるみゆ(人麻呂・万葉集1072)
「空は海。雲は波。星は林。そこへ月の船が漕ぎ入り、やがて遠ざかってゆく」
・漢詩を下敷きにした、見立ての歌です(夏の歌だと断定は出来ません)
重ねても涼しかりけり 夏衣 うすき袂に宿る月影
かさねても すずしかりけり なつごろも うすきたもとに やどるつきかげ(良経・新古今260)
・建久四年の六百番歌合の「夏衣」という題で
「重ね着してもまだ涼しかったなあ。夏衣の薄い袂に月影が映って」
・安法法師の歌(夏衣まだ単衣なる…)からの連想かも?
・重ねた夏衣が共寝の相手のものならば、また違った印象になりますね
庭の面はまだ乾かぬに 夕立の空さりげなく澄める月かな
にはのおもは まだかわかぬに ゆふだちの そらさりげなく すめるつきかな(源頼政・新古今267)
・‘夏の月’を詠んだ
「さっきの夕立にまだ庭も乾かぬのに、澄ましかえっている空の月よ」
・夕立の激しさが嘘のように静かで冴えわたった月
秋の月
木の間より洩り来る月のかげ見れば 心尽くしの秋は来にけり
このまより もりくるつきの かげみれば こころづくしの あきはきにけり(古今集184)
「木洩れの月の光…ああ心ざわめく秋が来たんだ」
白雲に羽うち交はし飛ぶ雁の 数さへ見ゆる 秋の夜の月
しらくもに はねうちかはし とぶかりの かずさへみゆる あきのよのつき(古今集191)
「白雲を背に連なり飛ぶ雁の、一羽一羽が見える程、澄明な月の夜」
行く末は空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月影
ゆくすゑは そらもひとつの むさしのに くさのはらより いづるつきかげ(良経・新古今422)
・建仁元年に詠進の仙洞句題五十首の一。お題は「野径の月」
「果ては空とひとつに交わる武蔵野は、草の原から月がのぼる」
・武蔵野の広大さが目の前に広がるようです
幾世へて後か忘れん 散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を
いくよへて のちかわすれん ちりぬべき のべのあきはぎ みがくつきよを(深養父・後撰集317)
「いかに時を経ても忘れはしまい。こぼれんばかりの野辺の萩を照り輝かせる月の夜を」
・屏風絵のような美しい歌。‘後か忘れん’というキザな表現も好きです
・‘月夜’には月光の意味もあります。その両義性も重視したいです
夕月夜 小倉の山になく鹿の 声のうちにや秋は暮るらむ
ゆふづくよ をぐらのやまに なくしかの こゑのうちにや あきはくるらむ(貫之・古今集312)
・九月最後の日=秋の終わり(秋の暮れ)の日、大井の地で詠んだ
「月の出ている夕暮れ、小倉山で鳴く鹿の声を聞きつつ秋は暮れてゆく」
・夕月夜…小倉(=小暗)の枕詞ですが、実際月も出ていたでしょう
ほのぼのと有明の月の月影に 紅葉吹きおろす山おろしの風
ほのぼのと ありあけのつきの つきかげに もみぢふきおろす やまおろしのかぜ(信明・新古今591)
「明け方の空にほんのり残る月の光の中、山から紅葉が吹きおろされてくる」
・なぜ明け方にこんな風景を見ているのか。女の元からの帰り?
冬の月
むばたまの夜のみ降れる白雪は 照る月影の積もるなりけり
むばたまの よるのみふれる しらゆきは てるつきかげの つもるなりけり(後撰集503)
「夜に降る雪は、きっと月の光が降り積もっているんだ…」
・月影が積もるという発想が美しいです。漢詩の影響などあるのかしら
冬の夜の池の氷のさやけきは 月の光のみがくなりけり
ふゆのよの いけのこほりの さやけきは つきのひかりの みがくなりけり(清原元輔・拾遺集240)
「冬の夜の池の氷が冴え冴えと見えるのは、月の光が磨くゆえだったのだ」
・色調がごてごてしていなくて、平明で、調べもなだらかです
・後撰集317番(上記「幾世へて…」)参照(元輔の祖父が深養父)
水に映る月
大空の月の光しきよければ 影みし水ぞまづこほりける
おほぞらの つきのひかりし きよければ かげみしみづぞ まづこほりける(古今集316)
「大空の月の光が冴え冴えと美しいから、映った水が真っ先に凍った」
・冬の歌です。凍てつくような月が想起されます
ふたつなき物と思ひしを 水底に山の端ならで出づる月かげ
ふたつなき ものとおもひしを みなそこに やまのはならで いづるつきかげ(貫之・古今集881)
・池に月が映っているのを詠んだ
「月は一つしかないと思っていたが、山の端でなく池の底にも月が出た」
照る月の流るる見れば 天の河出づるみなとは海にざりける
てるつきの ながるるみれば あまのがは いづるみなとは うみにざりける(貫之・土佐日記)
・旧暦正月八日、海に沈む月に業平の歌*を思い出して
「照る月が波に流れゆくのを見ると、天の河が流れ出す先は海だったのだと分かる」
*あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげて入れずもあらなむ (古今集・業平884)
・以下四首、都への帰還の際の歌です
水底の月の上より漕ぐ舟の 棹にさはるは桂なるらし
みなそこの つきのうへより こぐふねの さをにさはるは かつらなるらし(貫之・土佐日記)
・唐の詩人賈島の漢詩**を思い出して
「水底の月の上を漕ぎ渡るこの船の、棹に触るのは桂だろうよ」
**棹穿波底月、コウ圧水中天(棹は穿つ浪のうへの月を、船はおそふ海のうちのそらを)コウ=舟偏に工で船の意
・桂の木は黄葉する=月と同じ色なので、月に生えていると言われてました。おそらく棹の雫が月光で黄色く光るのを、桂の葉が散ると見立てたんでしょう
影みれば浪の底なる久方の空漕ぎ渡る 我ぞわびしき
かげみれば なみのそこなる ひさかたの そらこぎわたる われぞわびしき(貫之・土佐日記)
・上の歌に唱和して(別の人が詠んだ設定ですが実際は貫之本人の歌でしょう)
「海に映る月を見ると空を漕ぎ渡ってゆくようで、なんと侘しいことか」
・月という字は出てきませんが、影=月光のことです
都にて山の端に見し月なれど 浪より出でて浪にこそ入れ
みやこにて やまのはにみし つきなれど なみよりいでて なみにこそいれ(貫之・土佐日記)
・仲麿の歌(あまの原…)の当時を思い遣って
「都では山の端に見た月だが、ここでは浪の中から出て浪の中に沈んでゆく」
・後撰集では「海より出でて海にこそ入れ」となってますが、「波より…」の方が今まさに舟に揺られているという実感があります
秋の海にうつれる月を 立ちかへり浪はあらへど色も変はらず
あきのうみに うつれるつきを たちかへり なみはあらへど いろもかはらず(深養父・後撰集322)
「秋の海に映っている月の色は、幾度波が洗っても褪せない」
・「立ち」「かへり」…浪の縁語。私には「うつる」「裁つ」「洗ふ」「色」などから染色関係の連想も働いているように思えます(うつるには、色が変わるという意味もあります。海面を布に見立て、うつっているのにうつってない、という言葉遊びもしているような気が…??)
秋風に浪や立つらむ 天の河わたる瀬もなく月の流るる
あきかぜに なみやたつらむ あまのがは わたるせもなく つきのながるる(後撰集330)
「天の川は秋風で流れが速くなっているようだ。月が流れる様子からすると渡る瀬もないだろう」
・古今集には「天の河雲の水脈にて速ければ光とどめず月ぞ流るる」ってのもあります