宿りして春の山辺に寝たる夜は
以下、2001年5月2日に書いたものを転記します。

山寺に詣でたりけるに、よめる

宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢のうちにも花ぞ散りける (紀貫之・古今集117)花の和歌
やどりして はるのやまべに ねたるよは ゆめのうちにも はなぞちりける

この歌の眼目は、現実の桜を直接歌っていないところにあると思います。
彼が昼間実際に見た桜は、二句の「春の山辺」という語句によってほのめかされますが、印象は曖昧です。それが四句で一転、鮮やかな印象に変わります。「も」という並列の助詞を用いることで、昼の桜と夜の桜とが二重写しになり、歌に奥行きや厚みが増すのです。二つの時間が夢の中で桜を媒介に一つになり、永遠をも感じさせます。もしこれが、夢ではなく現実の闇の中に散る桜であったとしたら、これほどまで奥行きのある歌にはなっていなかったかもしれません。

また、こんなことも考えました。
夢の中で散る桜は、いわば世俗の塵を払った、純粋で幻想的な美しさを持ちます。しかし、夢にまで見るということから、昼間の桜はそれ以上の感動をもたらしたであろうことが分かります。山辺の桜は、あまりに美しかった。それは歌にできないほどだった。芭蕉が松島の絶景を前に「口をとぢ」たように、貫之もまた山辺の桜を前に言葉を失ったのではなか…。
そう思うとき、この歌に散る桜は、単なる夢よりも美しいものとなるのです。

('05.04.25)

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